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コチャン(コチャン・ストエヴィチ、)、またはケテニュ(、? - 1240年頃)は、モンゴルのルーシ侵攻に際し、ルーシ・ポロヴェツ連合をなしたポロヴェツ族のハンである。 ==生涯== コチャンは他のポロヴェツ族のハンと同様に、ルーシ諸公の闘争に干渉した。コチャンの娘の一人(聖名マリヤ)はルーシの公のムスチスラフ・ムスチスラヴィチに嫁いでいる。1205年、ガーリチ公ロマンの死後にガーリチ公国で戦ったが敗れ、かろうじて捕縛されるのを逃れた。 1223年、モンゴル帝国軍がポロヴェツ族の地を侵略した後、コチャンは義理の息子でガーリチ公となっていたムスチスラフの元に行くと、ムスチスラフをはじめとするルーシ諸公に、モンゴル軍に対する援軍を求めた。ルーシの諸公は援軍を承諾し、ルーシ・ポロヴェツ連合軍はカルカ河畔の戦いへと臨んだが、結果は敗北に終わった。 1237年早春、モンゴル軍は再びポロヴェツ族に攻撃を加えた。ラシードゥッディーンの記述によれば、3度目となる1238年の攻撃は、ポロヴェツ族にとって決定的な敗戦となった。ポロヴェツ族のうち降伏した人々と土地は、後のジョチ・ウルスに組み込まれた。コチャンは4万人の同族と共にハンガリー王国へ逃亡すると、ハンガリー王ベーラ4世は彼らを自国民とみなし、住む土地を与えた〔『ドナウ・ヨーロッパ史』p47〕。その代償として、コチャンと彼の率いる人々は、それまでのテングリ崇拝からキリスト教へと改宗し、ハンガリー王国の忠実な国民であることを求められた。歴史的史料から、コチャンは1239年に洗礼を受けたことが知られている。また、コチャンの娘の一人(洗礼名エルジェーベト)は、後にイシュトヴァーン5世となる、ベーラ4世の子と結婚した〔『ハンガリー史 1』p95〕。 その後でさえ、ハンガリーの貴族はポロヴェツ族に対して不信感を抱いていた。コチャンはモヒの戦い以前に、息子たちと共にペシュトで殺された。敬愛する指導者の死の後、ポロヴェツ族は略奪を行い、キリスト教を捨ててブルガリア帝国のカリマン1世の元へと去っていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コチャン (ポロヴェツ族)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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